今日は、明日の昨日

日々感じたことを、徒然なるままに書き連ねていき、足跡を残していきます。

『日本の喜劇人』(小林信彦) -その2

 「日本の喜劇人」(小林信彦著)を、昭和57(1982)年11月発行の新潮文庫(草158=4)で読んだ。

 日本喜劇は、「アチャラカ」の意するものの変化のように笑いの質の変化、森繁が体現した喜劇人から他の型への変化、テレビの出現と吸収などにより、変貌している。

 その中で、いろいろと知ったことがあるが、いくつか書き残しておく。

 私は、土曜日の夜8時代を席捲したドリフターズの「全員集合」や「オレたちひょきん族」以降の、テレビで映し出されるお笑い芸人の記憶が鮮明であるが、以前読んだ本のことも思い出される。

 まずは、いろいろと知ったことがあるが、いくつか書き残しておく。

○企画のロッパに対して、動きのエノケン

○「世の中には、すべったり、転んだり、舞台から転げ落ちて見せること、それ自体を喜びとする人がいる。私がいう体技である。が、それを芸にするのは容易なことではない。…中略…体技を芸にまでみがくのは容易なことではないが、エノケンはそれを完成した天才であった。ドタバタをやって、品があるというのは珍しい。」

○「森繁は、二枚目半というタイプを自ら開拓したのであり、彼が念じていたことおり、<喜劇によし、悲劇によし>というユニークな役者として大成した。……が、『三等重役』から『夫婦善哉』へのチェンジが-すなわち、上質のコメディアンから性格俳優への変化があまりに鮮やかだったので、その後の日本の喜劇人の意識にとんでもない異変を起こさせたのである。」

○「…そして、森繁の存在は、むしろ、あとからくる日本の喜劇人たちの、生理のみならず、生き方をも、ときとして、狂わせてしまったのである。」

○「トニー谷は、一貫して、尊敬されぬ道を歩き、その意味において尊敬に値しよう。芸人は河原乞食だと口では誰でもいえても、トニー谷のように居直って、持続するのは、ほとんど不可能なことである。」

○「脱線トリオは、テレビが創りだした際ショングループ・タレントであった。」

○「この時点(昭和29(1954)年)でのコメディアンたちは、テレビに吸収されるまえの最後の闘いを演じていたとおぼしい。そして、-

 ①吸収されて名を挙げた者

 ②吸収されても消えて行った者

 ③テレビに背を向けて行った者(あるいは吸収されなかった者)の三つに、大ざっぱに分けられたと思う。」

○「アチャラカは、といえば、良くも悪くも由利徹にとどめを刺す。」

○「アチャラカは<批判精神抜き>の崩しといえよう。ただし、これも独特の体技を必要とするので…略」

○「(宍戸)錠の魅力は、くりかえしたように、<凄み>と<おかしさ>が表裏一体となっているところにあるのだが、昭和40年ごろの彼は、主として<凄み>のほう市価、映画では要求されなかった。<おかしさ>のほうは、そのころから、テレビの1時間ドラマのなかで発揮されるようになった。<エースのジョー>の裏返しである。気の弱い小市民という役どころである。」

○「クレージー・キャッツは、敗戦後のバンド・ブーム、のちのジャズ・ブームが生んだ鬼っ子である。」

○「井上ひさしが、てんぷくトリオの座付作者になったのは、昭和43年9月である。」

○「由利徹はつねに、まず、自分を観客よりも低いもの、猥雑なもの、と規定しておいてから、おもむろに道化にとりかかる。これは、わが国においてかなり伝統的な道化役の在り方であり…略」

○「藤山寛美ほど、賞賛を浴びて登場した役者は、私の記憶にはない。森繁が絶賛したのは、いつだったろうか。あの賛辞が、多くの人の眼を寛美に向けさせたのは確かである。」

○寛美の芸が自在に見えるのは、(そして、じっさいに自在なのだが、)<型が決まった>瞬間に自分でそれをこわしてしまうからである。」

○「森繁のつくった、喜劇人の一つの像(在り方)を超えるのは、容易ではあるまい、と私が実感した」

由利徹の話をきいていると、<いかがわしさ>への本能的執着があり、ひとを笑わせることを、性行為のおうに好んでいるのが、ありありとわかる。こんなイイコトを、社会的地位や政治によって失ってたまるか、という意気込みである。そして、軽劇役者が理に落ちた動きをするようになったら、もうおしまい-と、きわめて、点が辛い。彼がみとめる役者は芦屋雁之助であり、軽演劇の役者こそ、芸の引き出しがないと、もたない、と言いきった。」

タモリがぎらぎらしていたのは、昭和55、6年までだった。タモリに失望した人たちは、実は、かつてタモリを異常に高く評価した人たちなのである。」